橋について知ってみる

 

 

多くの清流と深い山に恵まれた県北には、多くの橋が架かる。特に五ケ瀬川流域は「橋の博覧会場」とも呼ばれるほど。車社会の発展と技術の進歩にあわせて、整備されてきた長大橋は、私たち生活に欠かせない重要なものだ。「橋の日」(8月4日)は、延岡が発祥の地とされるが、今回は私たちと切っても切れない橋について、ちょっとだけ考えてみたい。

 

水害との闘いの象徴でもある橋。

 五ケ瀬川と大瀬川の2本の大河に囲まれた水郷延岡市の橋は、明治、大正のころまでは、板田橋と大瀬橋の木橋が2つだけだった。あとは昭和に入ってから架け られたもので、昭和以降の市長はじめ市民が架橋に対して、いかに執念を燃やしたかがしのばれる。と同時に、延岡は五ケ瀬川、大瀬川、北川、祝子川、南の沖 田川の水害に悩まされ、水との闘いの連続でもあった。中でも初代・9代市長の仲田又次郎氏(延岡市名誉市民)は、長大橋ばかり実に8本も新設または架け替 えするという大仕事をやってのけ、「橋かけ又次郎」あるいは「橋かけ市長」と呼ばれ、市民に親しまれた。
高千穂や日之影といった上流の、川幅が比 較的狭いところは、石橋が多く造られ、人々の生活を支えた。すぐに流される木製の橋と違って、石橋はなかなか流されず丈夫であったことと、熊本県(肥後 藩)に優秀な石工集団がいたこと、阿蘇の火砕流でできた凝灰岩が豊富にあったことなどが理由。凝灰岩は割れやすくて大きな柱などを造るのには向かないが、 加工がしやすい構造は、ブロック造りなどに向いていて、石橋の材料には最適だった。

 

   
 昭和9年ごろの大瀬橋(延岡市)  大正時代の板田橋(延岡市)

 

 

 

柱状節理が美しい高千穂峡。ここに、技術の進歩を一目で確認できるところがある。峡谷に架けられた三代橋が一望できるのだ。
最も低いとこ ろ、川面から27メートルの高さにあるのが神橋。長さ31メートルの石橋は昭和22年の県道開設に伴って架設された。2番目の高さ、水面から75メートル の高さにあるのが高千穂大橋。昭和30年にできた長さ96メートルの高千穂大橋は、人々の生活のみならず、観光地高千穂の隆盛をも支えた。そして一番高い ところ、水面から115メートルの高さにあるのが神都高千穂大橋。平成15年に完成した長さ300メートルの大橋は、逆ランガーアーチ橋としては国内第2 位のアーチ支間長143メートルを誇る長大橋。両岸のアーチ起点を結んだ線からアーチ頂上までの高さ(アーチライズ)46・8メートルは日本一。たもとに 道の駅が整備され、高千穂峡が一望できるとあって、観光名所にもなっている。技術の進歩に伴って長大橋の建設が可能となり、峡谷を下って上ってという不便 さが消えた。より便利な生活を求める人々の情熱が、渓谷をひとまたぎする長大橋を生み出していった。

 

 

 


肥後藩の石工(いしく)

石造りのアーチ橋は特に九州地方で多く、長崎市の眼鏡橋、熊本県矢部町の通潤橋などは有名だ。その理由の一つは、造り手が近くにいたこと。肥後の石工、中でも全国にその名を知られる種山石工は、数多くの名橋を残している。通潤橋はじめ、熊本県砥用町の霊台橋、鹿児島市の甲突川の五大石橋、皇居の旧二重橋も種山石工の手で造られた。
1780年代、天明年間のころ、長崎奉行所の役人だった藤原林七が、オランダ人から石造りのアーチ橋の建設技術を学んだ。禁制破りの追っ手がかかった林七は肥後の種山村(現熊本県八代市東陽町)に逃亡し、石工技術を確立。村人や子孫が技術を学び、種山石工集団が形成された。