堰(せき)を越える水

 

延岡平野を貫流する五ヶ瀬川に大きな井堰(いせき)があります。岩熊井堰です。今から274年前の享保19年(1734年)に出来たものですが、着工から完成まで10年の歳月を要し、当時の延岡藩(藩主牧野氏)の財政がひっ迫したといわれています。

 当初の工事担当責任者は家老の藤江監物でしたが、軍用金流用(他説もある)のざん言(人を陥れるための作り話などを目上の人に告げること)によって、息子3人とともに、日之影舟尾(ふなのお)に幽閉(自由ができないように牢などに閉じこめること)され、監物と長男の図書は獄死しました。次男の多治見と3男の左善は後に許されています。

 監物の後を引き継いだのは、郡奉行の江尻喜多右衛門で、彼の指揮により完成しましたが、監物の功績も非常に大きなものがあったのです。


 井堰工事は、三輪地区の諸木(しょぼく)山から松の木を切り出し、それを杭にしたり、横に組んだりして枠を作って、その枠に四角い石をピタッとはめ込むという大変困難なものだったのです。

 なんといっても水中での作業でしたから危険この上なく、水に足をとられたり、流されたりした人も、たくさんいたことでしょう。しかも、工事中に大雨や台風に襲われることがしばしばあって、せっかく造った井堰が流されることもたびたびありました。苦労の末、幅21.6メートル、堤長216メートルの大井堰が完成したのです。
                        
 現在の井堰は、昭和8年(1933年)に改修されたもので、高さ2.4メートル、幅5.9メートル、長さ262メートルです。規模は県下一で、ここから延びる用水路は出北、恒富、沖田用水など総延長は実に30キロメートルにもおよびます。その用水路が潤す田畑は1100ヘクタールもあるのです。出北の観音堂には、監物と喜多右衛門を祭る碑があり、2人の先賢を顕彰しています。