県北雑学

100年前に双発・単葉模型飛行機


 後藤勇吉が自作の模型飛行機を掲げている写真が残っている。明治43年(1910)、旧制延岡中学校2年(14歳)のときの撮影。奇しくもこの年の12月19日、徳川好敏陸軍大尉と日野熊蔵陸軍大尉が日本人初の飛行に成功している。米国・ライト兄弟の初飛行から7年後のことである。
 注目したいのは、勇吉が手にしている自作のゴム動力模型機。模型機は昔も今も単発(動力一基)ゴム動力機が相場なのだが、勇吉のは、驚くなかれ双発である。しかも、飛行機といえば複葉機が大半を占めていた時代に、模型ながら単葉機だ。
 プロペラは、双胴の胴体の先端にバー(横棒)を渡して取り付けられており、このバーが同時にコメタル(プロペラシャフトを通す部品=軸受)の役目をしている。その結果、動力のゴムひもは、胴体の両サイドにセットされている。
 また、ゴムひもの張力に耐えるように、胴体とバーとの角に火打ち梁(斜材)を渡して補強している。さらに主翼の縦リブには3本、尾翼の縦リブにも2本の横リブを通して、補強してあることから、丈夫に作られていることがわかる。

接着剤は”飯ノリ“か

 問題は組み立てるとき、釘と接着剤をどのように使ったかだ。バーと胴体をくつけるとき、鉄釘を胴体にそのまま打ち込むと、木がひび割れすることから、先にキリで釘穴を開けて打ち込まなくてはならない。
 ところが、釘を打ち込んだだけでは”トメ“が効かず、グラグラすることがある。そこで接着剤を使ってバーと胴体を固定する必要が出てくるのだが、今のように市販の接着剤が豊富にあるわけではない。あるのは膠(にかわ)ぐらいだ。
 ほんの少し接着するのに、膠を使う必要はないから、おそらく毎日食べる”ご飯つぶ“を使ったに違いない。この時代、ご飯つぶを木のヘラでつぶし、練って練りまわしてゼリー状になったものを、接着剤として使うのが一般的だった。この方法は今でも使われる。”飯ノリ“は乾燥すると意外に丈夫なのだ。

鉄釘の代わりに木釘を使用?

 ただし、飯ノリを接着剤として使用するときは、ふつう鉄釘は用いず、木釘や竹釘を自作して使った。一般の鉄釘は断面が丸いのに対し、木釘は四角錘に削って作るから、打ち込んだあと、釘がクルクル回転しないというメリットがある。
 このため、木釘は接着面の小さなものをくっつけるときは有効である。木釘を打ち込む場合も、先にキリで釘穴を開けておく必要があるが、木釘に飯ノリをつけて打ち込むことで、シッカリ固定する。
 写真をよく見ると、コメタルを兼ねたバーと胴体の接着部分に釘が打ち込んであるのがわかる。おそらくこの釘は鉄釘ではなく、木釘だったのではないか。

車輪は何で出来ているのか

 いま一つ解けないのは、車輪。これを何で作ったかだ。勇吉が模型機を持って写っている写真は、ライト兄弟の世界初飛行(1903年)からわずか7年後。この快挙を日本人が初めて知ったのは、その4年後のことといわれている。だから、模型機の市販部品やキットなどなかったハズ。ましてやプラスチックなどない時代。
 ならば、勇吉の模型機の車輪は何で出来ているのか。針金などの金属で作ったのか、細い木を熱湯で曲げて作ったのか、あるいは桐の木などの木口の部分を削って使ったのか。

計算どおり模型機飛ばす

 それはともかく、この時代にこれほど精巧な模型機を作るとは、驚きである。100年以上経た今、現在の模型機と比べても、まったく遜色がない。
 勇吉の親友・奈須仙吉によると、2階から飛ばした模型機を、計算どおり1階座敷に無事着陸させたという。勇吉は少年時代から航空機に関する天才的な才能を持ち合わせていたのである。(文中敬称略)

 

「巌」号に乗る勇吉(門川尾末海岸)

延岡上空を飛ぶ「富士」号。遠くに行縢山

飛行家・白戸榮之助の助手時代(右端が勇吉)

延岡市昭和町十貫で(後列左から5番目が勇吉)

大阪ー福岡ー上海間使用機

横断飛行路の検討(左端が勇吉)

太平洋横断飛行計画図

勇吉の愛機「富士」号

延岡市教育委員会文化課発行「空の先駆者 後藤勇吉」