県北雑学

県北の「へ~、そうなんだ」をお届けする

県北雑学

(延岡・日向・門川・美郷・高千穂・日之影 NORTH MIYAZAKI TRIVIA)


「八戸村」と「八咫烏」のレリーフ

国道326号八戸トンネル
「八戸村」と「八咫烏」のレリーフ


カラス


石塔に刻まれたカラス


「八戸烏」の石塔(北川町八戸)


鴟尾神社(北浦町三川内)


とび棒


御頭神社(北川町瀬口)


佐伯惟治公の墓(北浦町尾高智神社)


サギ


伊形花笠踊り

北川町八戸の八咫烏伝説

 延岡市北川町八戸(やと) の国道326号八戸トンネル出入口に「八戸村」の文字が入ったレリーフがはめ込まれている。よく見ると「八戸村」の「八」は、2羽のカラスが向かい合った形になっており、その右下には「八咫烏」(やたがらす)の文字が浮き彫りされている。
 八咫烏は、日本神話に出てくる三本足のカラス。神武天皇が日向国美々津から船出して大和へ向かう途中、山また山の難路が続く熊野(和歌山県) で、最初に高天原に現れたとされる高木神(タカギノカミ=タカミムスヒノカミ)が、道案内役として遣わしたのが八咫烏。
 神武天皇は八咫烏の行く方へ軍を進め、熊野を抜け、吉野(奈良県)を通って無事に大和の橿原(かしはら)に着き、橿原宮で即位した。
 江戸中期の岡山の地理学者・古川古松軒(ふるかわ・こしょうけん)は、八戸から豊後国三重(豊後大野市三重町)に至る「梓越え」(あずさごえ)を、越後(新潟県)の「親不知」(おやしらず)、阿波(徳島県)の「大歩危小歩危」(おおぼけこぼけ)とともに「本邦三大行路難」、つまり日本の三大難所と評している。  そんなわけで、難所を控えた八戸の地に、旅人の守り神であり、道案内役の八咫烏信仰が起こったのだろう。  八戸トンネルのすぐ近くの旧国道脇に、八戸烏(やとがらす)を刻んだ石塔と、石塔の説明を書いた木柱が建っている。木柱には「烏をモチーフにしたこの碑は、元禄八年(1695)建立されている。ここ八戸は、日向・豊後と結ぶ国境の宿場。梓山国境越えは行旅の難所、熊野権現の使いで道案内の神とされる八咫の烏の信仰があったことがうかがえる」(原文のまま)とある。
 「八咫」が「八戸」に転訛したのかハッキリしないが、旅人は八戸の宿場を出発するとき、八戸烏(八咫烏)の石塔に難所越えの安全を祈願したことは確かだ。
 八咫烏は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の信仰の対象であり、三山が配布している「牛王符」(ごおうふ=神札)には、たくさんのカラスが図案化されている。またJFA(日本サッカー協会)、陸上自衛隊情報科や同中央情報隊などのシンボルマークにも、八咫烏が使われている。

トビにまつわる殿様・佐伯惟治公

 延岡市北浦町三川内梅木に、鴟尾(とびお)神社(猪股信彦宮司)という「トビ」の名を持つ社(やしろ)がある。戦国時代中期、豊後国海部郡(佐伯市)の栂牟礼(とがむれ)城主だった佐伯惟治(これはる)公ほか二神が祭られている。
 惟治公は、知勇兼備の名将として領民に慕われていたが、主君・大友義鑑(よしあき=宗麟の父)に対し謀反を企てているとして、大永7年(1527) 11月13日、義鑑の命を受けた大将・臼杵長景に攻められた。  惟治公の謀反画策は、事実無根。実は栂牟礼城主の座を狙う惟治公の甥・惟勝、惟常らの讒言(ざんげん=ありもしないことを目上に告げること)によるものだった。
 城を明け渡した惟治公は、日向国へ逃れる途中、長景に味方する新名党によって追い詰められ、進退窮まった同年11月25日、北浦の尾高智(おたかち)山で自刃、家臣が介錯して果てた。享年33。
 そのとき、飛来した一羽のトビが惟治公のハラワタをくわえ、三川内梅木に舞い降りたという。村人たちは惟治公を哀れみ、トビが舞い降りた場所に社を建て、霊を祭ったのが鴟尾神社である。
 惟治公が自刃した尾高智山の山腹には、惟治公の胴を埋葬した墓があり、墓の横に尾高智神社がある。
 介錯された首級(しゅきゅう)は、家臣が小袖に包んで持ち出し、瀬口(延岡市北川町)で埋葬した。この場所には宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建てられ、すぐそばに惟治公を祭る御頭(おとう)神社がある。
 県北ではほかに、北浦町古江の元宮神社、同町三川内の光久寺、北川町川坂の宮原神社、上伊形町の上伊福形神社などにも惟治公が祭られている。
 一方、佐伯市には、惟治公がトビに姿を変えたという伝説がある。「トビノオさま」「トミオさま」などと呼ばれ、鳶野尾、鴟野尾、鴟尾、冨尾といった名の付く神社があちこちにあり、いずれも惟治公を祭っている。  戦国時代の地方の一武将が、国境をまたいで実に20数社に祭られているのは、全国でも珍しいのではなかろうか。
 近年、延岡・佐伯を中心に“日豊交流”が盛んになってきたのは、一つは惟治公が取り持ってくれた縁。

サギが津波を鎮撫、花笠踊りに

 延岡市伊形地区に「伊形花笠踊り」という伝統芸能が伝わっている。
 同地区は今から400年ほど前、大きな津波に襲われ、津波は7日7晩続いた。村の人々は山へ逃れ、「どうか津波がおさまりますように」と、神仏に祈り続けたところ、どこからともなく7羽の白サギが現れ、沖の波頭の上で舞い始めた。
 すると不思議なことに、津波はまたたく間におさまり、もとの穏やかな海に戻ったという。感激した村人たちは、白サギに感謝する踊りを、毎年、石田日枝(ひえい)神社に奉納するようになった。
 踊り手は花笠をかぶり、青色の袴(はかま)に白色の小袖で白サギに扮し、手には日の丸の扇子を持ち、力強い太鼓と歌に合わせ、白サギが海原を舞う様を表現する。
 延岡市伊形小では、毎年、6年生が運動会にときに「伊形花笠踊り」を舞うほか、例年8月に開かれる延岡市郷土芸能大会などでも披露している。平成20年(2008)、延岡市の無形民俗文化財に指定された。
 今から400年ほど前の津波というのは、慶長9年(1605)の東海・南海・西海道沖が震源とされる「慶長地震」か、寛文2年(1662)の日向灘を震源とする「外所(とんどころ)地震」のどちらかと思われる。どちらも大津波が県北を襲っている。