韓流のさきがけ南郷区

 

神門神社(国指定重要文化財)
 
韓国から訪れた人たち
  
師走まつりの様子
  
 韓国の伝統芸能「サムルノリ」
  
 韓国交流イベント
 
新姉妹都市調印
 
美郷町南郷支所のタンチョンの天井画 
 

韓流のさきがけ南郷区


 「韓流」という言葉を聞くようになって久しい。韓流とは、韓国の大衆文化の流行を意味する。その全国の魁(さきがけ)をなしたのが「百済の里」旧南郷村、現在の美郷町南郷区ではなかろうか。韓流の原点を見て取れる小さな村里には、韓国との悠久の歴史が刻まれている。

百済王族が神門へ

 「大化の改新」(西暦645年)から間もない660年、現在の韓国西部にあった王国「百済」(くだら、ひゃくさい)は、唐と新羅(しらぎ=百済の東隣)の連合軍によって滅ぼされた。

 663年、百済と親密な関係にあった日本(当時は倭=わ)は、援軍を派遣して唐・新羅と戦ったが敗北(白村江の戦い)。引き揚げる倭国軍に交じって、生き残った多くの百済の人たちが日本に亡命してきた。

 この中には、後に南郷村の神門(みかど)神社に祭られた禎嘉王と、木城町の比木神社に祭られた禎嘉王の子・福智王の姿もあったのではなかろうか。

 神門神社の創建は養老2年( 718)。神門神社の社伝によると、百済王族が神門にやって来たのは、天平勝宝8年(756)ごろになっている。創建は白村江の戦いと55年、日本亡命とは93年ものズレが生じている。

 それはともかく、伝説によると禎嘉王の一行は金ケ浜(日向市)に着き、そこから神門へ向かった。一方息子の福智王一行は、蚊口浜(高鍋町)に上陸、比木へたどり着いたと伝えられる。

 

百済の禎嘉王祭る神門神社

 ところが、安全のなハズの神門に追っ手が迫ってきた。禎嘉王やもう一人の息子・華智王らは懸命に応戦したが及ばず、ともに戦死した。急を聞いて駆けつけた福智王軍は、神門の豪族・どん太郎(どんタロ)の支援で追っ手を退けることができたといわれる。

 のちに禎嘉王は神門神社に、福智王は比木神社に祭られることになった。両神社は小丸川筋にあり、親子は上流の美郷町南郷区神門、下流の木城町比木と、一本の川の流れで繋がっている。神門神社は平成12年(2000)、国の重要文化財に指定された。

 神門神社には、百済王族の遺品とされる銅鏡24面が伝わっている。このうち「唐花六花鏡」は、奈良の国宝・正倉院に収蔵されているものと同一のものとされ、現在は神門神社に隣接する「西の正倉院」に展示されている。

 また、禎嘉王と福智王の父子対面を再現した「師走まつり」が、神門神社と比木神社に伝わっている。父子の霊を慰める祭りでもある。毎年、旧暦の12月18日.20日ごろに近い金・土・日の2 泊3日にわたって盛大に催され、1000年以上の伝統がある。



平成2年から韓国扶餘と本格交流

 このような時代背景から、旧南郷村と百済最後の首都となった韓国扶餘(プヨ)=扶餘郡扶餘邑(プヨユウ)=とが接近するのには、時間はかからなかった。

 昭和61年(1986)2月、まず南郷から韓国へ調査団を派遣した。これにこたえて、翌年には韓国から調査団が来村。南郷とプヨとの交流の足場がつくられ、平成元年(1989)には、日韓友好のイベント「百済の里夏祭り」が開かれた。これ以降、南郷は”百済の里南郷”として、広く知られるようになった。

 平成2年(1990)からは、まるで堰を切ったように南郷.プヨ交流が活発になっている。この年には韓国青少年連盟日本研修団の来村、韓国中学生180人のホームステイ、初代国際交流員の朴眞姫(パク・チンヒ)さん着任、韓国の金鐘泌元首相来村、韓民族歴史探訪団817人来村などと相次ぎ、南郷は韓国ブームに沸いた。海外からこれだけの数の人が同村にやって来たのは、おそらく百済王族の来村以来ではなかろうか。

 これに対し南郷側は中学3年生全員を韓国訪問させるなど、ひと昔前には考えられなかった村を挙げての国際交流が始まった。

 前後して同年11月、神門神社下に「百済の館」が完成した。館の完成を祝い、韓国の伝統芸能「サムルノリ」が披露された。



平成3年、姉妹都市調印

 日韓交流が盛んになる中、南郷とプヨの待望の姉妹都市調印が平成3年(1991)9月、南郷で行われた。

 同年にはサムルノリの指導者4人が来村、同村の青年たちを対象に約1カ月間、ミッチリ指導した。

 その甲斐あって、翌年9月の百済大祭に南郷のサムルノリチーム「男寺党」を派遣、プヨで大喝采をあびた。

 その後も、テジョンEXPOに「百済の里展」の出展、また百済の里文化交流使節団が同EXPOのパレードに参加するなど、韓国の人たちに「百済の里南郷」を強く印象付けた。

 平成8年(1996)5月、西の正倉院落成。韓国の駐日大使・金太智氏らが来村して、盛大な落成式典を挙行。西の正倉院も百済との関係がなかったら、おそらく実現していなかっただろう。

 


平成21年、新姉妹都市調印

 すでに姉妹村締結から21年。その間、南郷村は平成18年(2006)1月1日、西郷村、北郷村と合併して美郷町になり、南郷村は南郷区として新たなスタートを切った。平成21年(2009) 11月、姉妹都市提携更新調印式と韓国交流イベントを美郷町で実施した。

 日向市東郷町から国道446号を通って南郷に入ると、町の地名や案内板など、いたるところハングル文字があふれている。南郷区の職員の名刺にも、名前の上にハングル文字の”ルビ“が振ってある。

 振り返れば、白村江の戦いから来年で1350年。はるかなる時空を越えて結ばれた南郷と韓国プヨの二つの町は、今後も変わることなく交流を続けることだろう。