避けられた延岡市街戦

1877年8月10日~8月13日 避けられた延岡市街戦


小銃弾
(延岡市内藤記念館蔵)

 

旧原時行宅の床柱に残された刀傷
(延岡市教育委員会蔵)

 西郷は10日、大貫を出て本小路の旧延岡藩家老・原時行宅に宿泊します。この夜、薩兵が原宅の床柱に刀で傷をつけたそうですが、それが誰かはわかりません。翌11日夕、西郷は川船で五ヶ瀬川を下り、川口から北川をさかのぼります。船で一夜を明かし、12日は熊田(現延岡市北川町)近くの深瀬野峰の吉祥寺に宿をとります。 熊田は奇兵隊長の野村忍介(おしすけ)が、6月22日から本営を置いていました。その間、野村は延岡に兵器工場を設け、大砲、小銃、弾薬を造ります。兵器製造に必要な金属は、延岡中から買い集めるなどしましたが、今山八幡にあった先代の「城山の鐘」(内藤記念館蔵)は、今山の谷に落として隠し、難を逃れています。 官軍の延岡占領直前の13日午後、延岡区長の塚本は、北小路の谷仲吉宅で野村と会い、延岡を戦火から救ってほしいと懇願します。野村は延岡を、無抵抗のまま官軍に明け渡すことに反発しましたが、塚本の熱意に押され、池上(いけのうえ)四郎(5番大隊長)ら幹部に、延岡撤収の了解をとりつけます。これがあと1日遅れていたら・・・。 西郷は13、14日、笹首(熊田のすぐ南)の小野彦治宅に宿泊します。このころ桐野、村田、辺見ら幹部は部下を率い、延岡から西郷のいる本営へ向かいました。いよいよ15日の和田越決戦に備えることになるのです。