厚姫と西郷

                    厚姫と西郷

●嫁入り道具揃えた西郷

 篤姫は天保6年2月19日(1836)、薩摩(鹿児島)藩の島津家分家・今和泉島津忠剛(ただたけ)の長女として生まれます。安政3年(1856)、13代将軍・家定の正室(正妻)として迎えられますが、その嫁入りのとき、篤姫を支え、嫁入り道具などを揃えたのが西郷隆盛です。
 ところが篤姫24歳のとき、家定に先立たれます。2年足らずの結婚生活でした。篤姫は家定の死去直後、落飾(らくしょく=髪をそり落とすこと)して、名を「天璋院」(てんしょういん)と改めます。
 時代は下って、慶応4年(明治元年=1868)正月、薩摩・長州を中心とする新政府軍は、徳川勢力を滅ぼすため、旧幕府軍と戦います。いわゆる「戊辰(ぼしん)戦争」です。
 このとき、政府軍3軍の1つ、東海道軍を率いていたのが西郷です。西郷らの軍隊は江戸城を総攻撃することになりますが、江戸城には天璋院(篤姫)がいます。薩摩藩や西郷は、彼女の身を案じ、鹿児島に戻そうとします。しかし、「私は徳川家に嫁いだ身」と、きっぱり断っています。

●西郷に嘆願書送る

 江戸城総攻撃の直前、幕府の陸軍総裁・勝海舟は、薩摩藩邸に出向き、西郷に攻撃中止を申し入れ、江戸城明け渡し(無血開城)が決まります。実は西郷・勝の会談の少し前、天璋院は薩摩藩と西郷に手紙を送り、徳川家の存続、慶喜(よしのぶ=15代将軍)の助命と、大奥女性たちの身の安全を守るために嘆願していたのです。

●身一つで死地に赴く

 この年の4月、大奥女性たちの就職の世話など、身の振り方で奔走した後、自分は一物も持たず江戸城を出て、一橋徳川邸に身を置きます。そして明治16年(1883)11月20日、波乱に満ちた生涯を終えました(享年49歳)。大奥女性たちのために散財して、手もとに残っていたお金は、わずか3円(現在の価値で約6万円)でした。

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