西郷マメ知識-西郷札

西郷隆盛 マメ知識-西郷札-


西郷札
西郷隆盛宿陣跡資料館蔵(延岡市北川町)

 薩軍は、2月15日に鹿児島を出てから負け戦が続きます。そのため、本営を4月27日に人吉、5月31日には宮崎へと移します。と同時に、戦費も底をついてきました。
 そこで総司令・桐野利秋は、軍票(西郷札)製造にとりかかります。和紙に金額を印刷し、ワラビのノリを使って寒冷紗(かんれいしゃ=薄くて目の粗い綿布)と貼り合わせたもので、「ワラビ札」とも呼ばれています。
 10、5、1円、50、20、10銭の紙幣を色分けして、合計14万2500円(約17万2000円という説も)を造りました。現在の価値にして、10億円を越える額です。
 製造所は、初め佐土原の「瓢箪(ひょうたん)島」(現宮崎市佐土原町尾原あたり)に設けられたらしく、なんと偽札造りの犯罪者を、牢から出して造らせたといいますから驚きです。2銭銅貨なども造ったようですが、官軍が接近してきたために、ほとんど廃棄したようです。
これで何とか急場をしのいだわけですが、臨時の通貨だし、しかも不換紙幣でしたから、このあと大変なことになるのです。
 西郷札は、まず宮崎で使われます。ところが、宮崎が官軍に占領されると、紙切れ同然になり、宮崎の商人たちは、西郷札を佐土原に持って行って使い果たします。佐土原が陥落すると、佐土原の商人は高鍋で使うといった具合に、薩軍の撤退とともに北上、ついに行き止まりの延岡に、大量の西郷札がはんらんしたのです。
 かといって、延岡の商人たちは、使う所がありません。いわば泣き寝入りの状態で、破産した人もいたようです。ただ、誰が破産したのか、記録は残っていません。
 西南戦争後、西郷札と政府通貨との交換を求める声が高まりましたが、受け入れられず、西郷札の持ち主は、あきらめざるを得なかったようです。
 こうして延岡の経済は、パニックに陥ったわけですが、西南戦争が終わった2年後の明治12年(1879)4月、第145国立銀行を、旧延岡藩で設立し、産業を興して旧藩士や商人を救うことになるのです。
 国立銀行は、岩倉具視らが海外視察に出かけている間、留守内閣を預かった西郷隆盛たちが、明治5年(1872)に制定した条例に基づくものです。西南戦争で混乱した延岡を、西郷が中心となって定めた国立銀行条例が救ってくれたとは、皮肉なものです。
 紙切れになった西郷札も、今やマニアの垂涎のマトとなり、そう簡単には手に入りません。今ごろ天国の桐野利秋は、苦笑していることでしょう。

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