県北雑学メモ~幻の美々津県
             県北雑学メモ「美々津県」(ウイング)


 
 明治の初め、県北は「美々津県」だった時代があります。


  慶応4年(1868)4月、幕府を倒した新政府は、全国の幕府領(天領)を取り上げ、同年閏(うるう)4月、天領に代えて県を置きます。日向国内の天領は富高県になり、県庁は現在の日向市役所南側にある幸福神社の所にあった富高陣屋跡に設けられました。しかし、同年8月、日田県に編入されてしまいます。日田は天領富高などを統括する代官所があった所です。


  一方、延岡藩など各藩は依然、藩主(明治2年6月の版籍奉還後は知藩事)が治めていました。


  明治4年(1871)7月、廃藩置県が実施されると、日田県の一部だった旧富高県は、今度は延岡藩から変わった延岡県に属することになります。


  それもつかの間、同年11月14日、政府は延岡県や高鍋県、佐土原県などを廃止、新たに美々津県を置きました。日向国は大淀川を境に北は美々津県、南は都城県になったのです。


  美々津県は現在の延岡市、日向市、東・西臼杵郡、児湯郡、宮崎市の一部なども含まれました。旧藩域には関係なく県域を定めたのは、旧藩主の権力をそぐためでした。


  県治所(県庁)は、高鍋藩が支配していた港町・美々津に置かれ、庁舎は同藩時代の御仮屋(藩主の宿泊施設)を充てました。今の日向市役所美々津支所・美々津地区公民館がある場所です。


  県庁には庶務、聴訟、租税、出納の4課を置き、高鍋、高岡、高千穂、椎葉(旧人吉藩領)に出張郡治所を、翌年には延岡と佐土原に郡治所を開きました。


  県職員のトップは参事で、初代参事は橋口兼三氏、2代目は福山健偉(けんい)氏でした。参事以下20人前後の職員のほとんどは、鹿児島出身者が占めていました。


  明治5年5月23日付の「美々津県報告書」によると、戸数4万1387戸、人口20万64人、石高17万969石となっています。ちなみに都城県は6万8236戸、31万121人、石高は43万石余もありました。


  同じ日付で福山参事は、県庁を富高に移して県名も「臼杵県」にしたいと、政府に願い出ています。富高は大型船が入港できる細島港に近いことが、その理由の一つでした。


  願いかなって新県庁は富高陣屋跡に決まり、同年7月26日に移転を終えています。富高は2度も県庁になったわけです。でも、臼杵県への改号は実現しませんでした。


  県庁を富高に移してから半年後の明治6年1月15日、政府は美々津県と都城県を合併して宮崎県を置きました。美々津県は1年2カ月ほどで幕を下ろしたのです。


  政府は明治9年8月、宮崎県を鹿児島県に併合しますが、やがて分県運動が起こり、現在の宮崎県になったのは明治16(1883)年5月のことでした。


  美々津県廃止後、県庁だった建物は増改築され、一時期、美々津小学校として使われました。跡地には「美々津縣廳跡」の石碑が建っています。
  

岡富県庁と美々津県庁が
あった富高陣屋跡
美々津県庁舎
(日向市美々津県庁庁文書から)
美々津県印の複製と印影
(日向市史編さん室蔵)