大正5年11月、門川で初飛行
強引に手に入れた機材を組み立て、出来上がった機体を尾末の浜に引っ張り出して、飛行テストを始めた。格納庫から浜へ引き出す作業は、地元の人たちも手伝った。 ところが、いくら馬力をつけても水面を滑走するだけで離水しない。何回かテストするうちに、フロート(機体を水面に浮かせるウキ)に原因があることを突き止めた。 さっそくフロートを改良したところ、見事に離水、直線飛行に成功した。門川に機材を運んでから3カ月、20歳の誕生日の10日前、11月2日ことだった。 門川での初飛行から3カ月後の大正6年(1917)2月、本格的な飛行士になるため上京。同年11月、帝国飛行協会陸軍依託第3期操縦生試験に、見事合格した。全国から300人余が受験、パスしたのは勇吉を含めてわずか3人という超難関だった。 愛機「富士」号で日本航空界のスターに
大正8年(1919)9月、日本飛行機製作所入社。同社は、川西航空機(新明和工業の前身)の創始者・川西清兵衛と、中島飛行機(富士重工業の前身)の創始者・中島知久平が出資して設立した会社。 だが、川西と中島のソリが合わず、会社はあっけなく解散。同社事務長だった坂東舜一らとともに退職、千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所の客員教官として練習生の指導にあたった。 同研究所の設立者・伊藤音次郎は、数々の飛行機を開発。その飛行機に、故郷の大阪市恵美須町の名を取って「恵美」と名付けている。大正9年(1920)7月、坂東と共同出資で「恵美16型」を製作。実家の屋号から「富士」号と命名した。勇吉23歳。 この「富士」号で懸賞飛行大会、懸賞郵便飛行などの競技に参加、数々の記録を打ち立て、勇吉は一躍日本航空界のスターとなった。 大正9年、初の郷土訪問飛行
大正9年8月2、3日、帝国飛行協会主催の第1回懸賞飛行大会に「富士」号で出場。高度、速度、高等飛行の3種目のうち、高度飛行1位。速度飛行2位、高等飛行1位の好成績を収めた。高度飛行は5000メートルを超え、当時の日本記録。 翌9月10日〜12日、「富士」号で初の郷土訪問飛行。昭和町十貫の前にあった十貫島をベースに、五ケ瀬川を滑走水路にして飛行。市民は上空を旋回する勇吉に手を振ったり、歓声をあげてこたえた。 日本初の一等飛行士免許取得
大正10年(1921)、航空機操縦士免許規則の施行に伴い、日本初の「一等飛行機操縦士免状」が交付され、勇吉は自他ともに日本を代表するパイロットとなった。その後の活躍はめざましいものがある。 大 正11年(1922)3月12日、岐阜県各務原(かかみがはら)〜東京間で、日本初の旅客輸送(乗客2人)に成功。同年6月、東京芝浦で水上機による遊覧 飛行開始(飛行券30円)。7月28日、キクヨと結婚。11月、第5回懸賞郵便飛行で東京〜大阪間を往復5時間34分の最速を記録。 大正12年(1923)4月、大阪〜別府間の定期航空路開拓、第2回郷土訪問飛行で母・チカを乗せて飛行。 関東大震災で大活躍、初の日本一周成功同年9月1日、関東大震災発生。勇吉は東京〜大阪間を何度も往復して約6万通の郵便物輸送をこなしたほか、被災情報を大阪の新聞社に逐一届けるなど、飛行機を駆使して大車輪の活躍をした。同年11月18日、長男・高行誕生。 大正13年(1924)7月、大阪毎日新聞社と提携、水上機の川西式Kー6型「春風」号を操縦して、日本初の日本一周に成功した。 神戸から横浜へ書類届けた美談大正14年(1925)12月31日、横浜港から米国へ向かう船の乗員が、神戸に置き忘れた重要書類を飛行機で届けるという“珍事”があった。 出 港まで5時間足らずしかなく、大阪にいた勇吉に、書類を忘れた乗員が途方にくれているという情報が入った。さっそく水上機を出し、書類を受け取ると、横浜 に向けて離水、悠々出港時間に合った。このニュースは美談として新聞で報道され、飛行機の最大の武器“スピード”を改めて世間に示すことにもなった。 海外空路開拓、初の鮮青果物空輸さらに活躍は続く。大正15年(1926)は、大阪〜大連間の郵便物空輸に成功。大阪〜京城(ソウル)〜大連間、また大阪〜福岡〜木浦(モッポ)〜上海間で試験航空輸送の飛行計画を指導。 昭和2年(1927)5月16日には、宮崎産のカボチャやキュウリなどの新鮮青果物を、大阪へ空輸。これが日本の生鮮食料品空輸の最初。 太平洋横断飛行の監督に
昭 和2年5月22日、米国・リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行の成功。帝国飛行協会はわずか2週間後の6月6日、太平洋横断飛行計画を発表した。5カ月後 の11月1日、太平洋横断飛行実行技術部委員会は太平洋横断飛行士を発表。勇吉は監督、一番機の搭乗者藤本照男、海江田信武、予備搭乗者は諏訪宇一が決 まった。 勇吉らは訓練のため茨城県の霞ケ浦海軍航空隊に入隊。長時間飛行に慣れた勇吉でも、今度はわけが違う。列車に乗るときは傘を持って乗り込み、座席に座ると、傘を操縦かんに見立て、降りるまで微動だにしなっかたほどだ。 使用予定機は川西式Kー12型「桜」号。リンドバーグの大西洋横断機「スピリット・オブ・セントルイス」を一部模して、2機作られた。性能がいま一つだったことから、勇吉のアドバイスによって、別な機体を製造することになっていた。 昭和3年2月29日、無念の墜死太平洋横断という偉業を成し遂げんと、日夜訓練に励んでいた勇吉に、運命の時がやってくる。 昭和3年(1928)2月28日、13式艦上攻撃機で霞ケ浦海軍航空隊から長崎県大村海軍航空隊まで約1000キロを一気に飛んだ。明けて29日、今度は大村から霞ケ浦への帰路につくことになった。搭乗者は勇吉、岡村、諏訪の三人。 午前8時15分、離陸。天候は雨で上空は霧がたちこめ視界不良。長崎・佐賀の県境付近まで来たとき、いったん大村へ引き返すことにした。これが勇吉の死のターンとなった。 機首を大村に向けて間もなく、佐賀県七浦村(現鹿島市)の多良岳(たらだけ=996メートル)北斜面の柿の木に主翼を引っ掛けて墜落・炎上した。大村を出発して15分後のことだった。 岡村、諏訪の二人は重傷を負いながらも脱出したが、助手席の勇吉は、這い出すことが出来ず死亡した。享年33。日本の航空界は後藤勇吉という巨星を失ったばかりか、太平洋横断飛行計画も中止された。 日本航空界に多大な功績残す
事故から84年の歳月が流れ、当時4歳だった長男・高行、事故後に生まれた次男・洋吉ともに、すでに他界。高行は生前、延岡市シルバー人材センターの初代事務局長を務め、洋吉は旧甲種飛行予科練習生15期生で、宮崎県甲飛会の事務局長を務めた。 勇吉の生涯は短かったが、黎明期の日本航空界に多大な功績を残し、その後の日本航空界にも大きな影響を与えた。勇吉の栄誉を称えるため、城山公園に顕彰 碑、妙田緑地公園と門川海浜総合公園に銅像、母校の延岡高には胸像が建立されている。墓所は延岡市北小路の台雲寺。(文中敬称略) *参考文献=「空の先駆者 後藤勇吉」(延岡市教育委員会文化課)、「後藤勇吉の記録」(夕刊ポケット新聞社)、「延岡高校百年史」(延岡高校同窓会)、「宮崎県大百科事典」(宮崎日日新聞社)。 |