戦時中、学童51人が疎開 太平洋戦争真っ只中の昭和19年(1944)、沖縄県民の本土疎開が始まった。 同年8月、沖縄本島南部の豊見城(とみぐすく)村立第二国民学校(現豊見城市座安小)の引率世話人5人(炊事係を含む)と男女学童51人は、宇納間の北郷国民学校(現北郷小)に入学した。当時の校長は園田武二郎氏。 ケンカ友だちの間に”絆“生まれる 疎開学童は北郷小の校舎の一角で、全員まとまって寝泊りすることに。最初は互いになじめず、ケンカは日常茶飯事。1対1でケンカしていると、沖縄の子供たちは、助太刀というか、集団で立ち向かってきた。でも、そこはやはり子供。時がたつと仲良くなり、自然と”絆“が生まれてきた。 疎開から7カ月後の昭和20年(1945)3月26日、沖縄戦が始まり、沖縄県民約10万人が犠牲になるという日本の歴史上最悪の地上戦となった。もし、豊見城の子供たちが疎開して来なかったら、この戦いに巻き込まれていたことは、疑う余地はない。 やがて終戦。ところが、沖縄は米軍に占領されているうえ、戦争で荒廃し、すぐには故郷へ帰れなかった。戦後1年2カ月過ぎた昭和21年(1946)10月、ようやく全員無事に故郷の土を踏んだ。疎開学童を送り出したときの校長は、白田与三郎氏だった。 北郷小の校庭にあったフジ棚の前で撮影された疎開学童らの写真が残っている。 北郷村宇納間に疎開した豊見城村立第二国民学校の学童 「宇納間会」を立ち上げた元学童 疎開学童が帰った後、しばらくは北郷と沖縄の間で1通の手紙も交わされることはなく、占領下では本当に故郷へ戻ったのかどうか、確認すらできなかった。 悶々とした時代が長く続き、昭和47年(1972)5月1日、沖縄はようやく本土復帰。北郷村民や村議会などで、疎開学童の消息が話題になり始めた。 そんな折、昭和54年(1979)の九州地区商工会青年部ソフトボール大会が沖縄で開かれることになり、北郷村商工会チームが県代表で出場することになった。 那覇空港に降り立った一行は、空港玄関でビックリすると同時に、興奮と感動に打ち震えた。なんと彼らが目にしたものは「宇納間会」と大きく書かれたノボリだった。「宇納間は、オレどんの村じゃが。なんで宇納間を知っちょっとじゃろかい」。 出迎えた人たちこそ、立派な大人に成長した北郷小の疎開学童たちだった。北郷村民が知らぬ間に、宇納間会という親ぼく組織を立ち上げていたのである。空港には宇納間会の當銘保裕会長(当時豊見城村議会副議長)も出迎え、感涙に浸った。 村の子供らが互いに訪問 交流は、姉妹村盟約締結の翌月から始まった。まず豊見城の子ども会60人が、北郷を訪問、前後して北郷の子ども会も31人が豊見城を訪問、”元疎開学童“や子供らと交流した。 その後も、北郷の子ども会が豊見城を訪問して「ひょっとこ踊り」を披露。一方、豊見城の子ども会は「うなま地蔵夏祭り」で沖縄県の伝統芸能「エイサー」を披露している。 もちろん、子供たちだけではない。行政や議会、商工会、JA日向北郷支店(同支店女性部ほか)、森林組合、建築同業者組合、婦人連絡協議会、青年団もこぞって交流の輪を広げ、北郷の特産品を沖縄で販売したり、逆に沖縄の物産を北郷で販売するなど、物品の交流も盛んになってきた。 エイサーで交流深まる 中でも毎年、豊見城の子ども会や青年たちによって披露されるエイサーは、北郷村民に深く浸透し、「北郷でもエイサーをやろう」という機運が高まった。 平成13年(2001)には、北郷の子供たちによるエイサーグループ「絆」が誕生。のちに同村青年団のエイサー「琉星會」も結成され、毎年8月の「うなま地蔵夏祭り」で、北郷と豊見城の交流エイサーを披露している。 琉星會は、杉本慎吾部長をはじめメンバー15人。毎週火曜と木曜に練習、地蔵祭りのほか、県北各地のイベントに参加したり、老人ホームを慰問するなどしている。 戦争の最中、沖縄県豊見城村の学童疎開によって生まれた美郷町北郷区との絆は、70年近い時を経た今、平和の絆として、今後も受け継がれていくことだろう。 |