元北郷村長 長田圭二郎氏の話

元北郷村長 長田圭二郎氏 

元北郷村長 長田圭二郎氏の話 

   私が9歳のとき、沖縄の子供たちが北郷に疎開してきました。当時は食糧難で、疎開学童は配給されたものしか食べられませんでした。

 幸い私の家は農家で自家用のコメなどがありましたから、沖縄の友だちとはケンカをしても、家に連れてきては、ご飯を食べさせていました。こうしたことから、沖縄の子供たちと親密さが増していきました。

 終戦後、疎開学童は沖縄に戻りましたが、その後はまったく音信不通でした。それが、商工会青年部ソフトボールチームが沖縄大会に出場したとき、当時の疎開学童たちで作った「宇納間会」が青年部ソフトチームを歓迎してくれて、ようやく、個人単位での文通が始まったわけです。

 昭和63年、姉妹村盟約締結のために豊見城村を訪れたところ、村長の金城利一さんや宇納間会の當銘保裕さんをはじめ、宇納間会の人たちや村議会、村民の大歓迎を受けました。當銘さんは私のことも覚えておられ、涙を流してよろこんでおられました。よほど、待ちわびておられたのでしょう。

 北郷村からは、記念に木製の大きな時計台を贈りました。この時計は現在、豊見城市役所の玄関ホールにあります。豊見城のほうからは、シーサー(魔よけの獣の像)をいただきました。

 それから本格的な交流が始まったのですが、長く交流を続けるには、子供たち中心にする必要があるということで、互いに子供たちを訪問させるようにしたのです。

 その交流ですけど、豊見城へ行くと必ずエイサーで歓迎され、豊見城の子供らが北郷に来ても、やはりエイサーを披露するわけです。それなら北郷の子供たちにもエイサー学ばせたらどうか..ということになって、本場から講師を招き、小・中学生に指導してもらったのです。こうして、現在も引き継がれているのです。

 物産の交流も盛んで、特に「うなま米」は評判が良くて、沖縄ではすぐ品切れになるほどです。

 

終戦50年を記念して建てられた「きずな」の碑と戦時中北郷小にあった鐘