県北雑学「岩熊井堰と用水路改修に尽くした偉人」

岩熊井堰と用水路改修に尽くした偉人(延岡市下三輪町・貝の畑町)

今年は年明けから異常に雨が少なく、県北の3、4月の雨量は記録的な少雨となった。このため、高千穂町や美郷町の一部では断水措置がとられ、農作物に被害が出たところもあったが、5月23日にツユ入りしてからは、一息ついた。
昔はどうだったのか。延岡市の平野部の場合、過去100年間、水不足によって、イネなどの農作物が大きな打撃を受けたことはほとんどない。それは井堰(いせき)と井堰の水を分配する網の目のように張り巡らされた用水路のおかげである。
県北の井堰というと、五ケ瀬川の延岡市下三輪町岩熊と貝の畑町の間をせき止めた県内最大の「岩熊井堰」がよく知られている。牧野延岡藩の家老・藤江監物と郡奉行・江尻喜多右衛門の手によって享保19年(1734)に完成した。荒地だった出北地区は美田となり、古城や新小路、下出口などの用水路沿線もその恩恵を受け、新たに131ヘクタールの水田が開かれた。
277年後の今、岩熊井堰の水は南北の各用水路によって南方地区の吉野、天下、小峰、松山、古川、野地、野田、大貫方面へと運ばれ、一方、恒富・伊形地区は出北、惣領、浜砂、別府、浜、平原、沖田、三輪、小野、塩浜、石田、伊形方面へと水路が延びている。
大正から昭和にかけて岩熊井堰と既存用水路改修、維持・管理に心血を注いだ人物がいた。旧南方村の村長であり県議でもあった甲斐奎太郎翁と、旧恒富村長・日吉幾治翁、同・門馬豊次翁、それに伊東常太郎翁、山本七郎翁らだった。
明治以降、藩の手を離れた岩熊井堰をはじめ大瀬川の須輪間、百間、野田、大貫の各井堰と、恒富村や伊形村、南方村の用水路が荒廃、水量が減ってきた。これを憂い、大正8年(1919)、まず日吉幾治氏が各水系を岩熊井堰に一本化する構想を打ち出した。
日吉氏は、伊東常太郎氏と山本七郎氏に命じて、先進地の筑後川の井堰を視察させ、井堰と水路の詳細な研究を行った。日吉氏の後を受け継いだ門馬氏は大正13年(1924)、岩熊井堰と用水路の大改修計画を立てた。
一方、大正12年(1923)、南方村長に就任した甲斐奎太郎氏は、早期に井堰と用水路の改修が必要と判断、県政に訴えるため県議となった。さらに県予算通過をはかるために、所属していた憲政会を離党して政友会に入るなど、所属党員から恨まれるのを覚悟で予算確保に全力をあげた。
これが効を奏して昭和3年(1928)9月に井堰と水路改修の予算が認められ、同年12月に起工式が行われた。昭和8年(1933)12月10日、実に5年の歳月をかけた岩熊井堰(全長262メートル)改修と南北幹線用水路改修の大工事が完成。工事には、多くの村民が協力した。
その間の昭和5年4月、延岡町・岡富村・恒富村が合併して新しい延岡町になり、8年2月11日に市制を施行、延岡市となった。
昭和23年(1948)、南方村民は天下町に甲斐奎太郎翁の銅像を建て、その功績を称えた。南方村が延岡市と合併したのは、その7年後の30年(1955)4月。
山本七郎翁は、出会う人にコンペイトウをあげていたことから「コンペイトウ爺さん」として慕われ、恒富地区の用水路の維持・管理に半生をささげた。昭和26年(1951)延岡市文化功労賞、35年(1960)には県文化賞が贈られた。
日吉幾治翁は、新生の延岡町長も務めた人。恒富村長時代、机にはいつも泥のついたワラジとカンテラが下がっていて、夜間も用水路の点検を怠らなかった。愛宕神社下に立像がある。
現在、岩熊井堰と関係用水路は延岡市土地改良区(染矢敏則理事長)が維持・管理にあたっており、水路延長は幹線・支線合わせて約30キロ、延岡平野の約450ヘクタールを潤している。
今、延岡平野の農家が水に困らず、安心して田植えができ、収穫されたコメを市民がありがたくいただけるのは、こうした先賢たちの血のにじむような努力があったからである。

 

写真説明(上から)

貝の畑町から見た岩熊井堰

北幹線用水路の開削工事。直径1.6メートルという当時日本最大のヒューム管を使った。(昭和6年4月17日)

北幹線用水路の開削工事(昭和6年)

改修工事中の岩熊井堰(昭和6年)