戦争の記憶と痕跡

空襲太平洋戦争(第2次世界大戦)が終結して66年、今なお全国いたるところに戦争の痕跡を見ることができる。県北でも防空壕跡や軍事基地跡が残っており、戦没者の慰霊碑も各地に建てられている。
こうした痕跡や慰霊碑などを訪ね、また多くの人命と財産が失われた空襲の惨劇を伝え残し、平和の尊さを改めて認識したい。

中心市街の大半が焼失した延岡大空襲


昭和16年(1941)12月8日から始まった太平洋戦争は、20年(1945)3月ごろから本土空襲が激しくなった。6月中旬から終戦の8月15日までは、ほぼ連日、日本のどこかの都市が空襲を受け、80万人といわれる非戦闘員の一般市民が犠牲になった。
延岡大空襲当日はツユ真っ只中、蒸し暑く寝苦しい夜だった。昭和20年6月28日午後11時半ごろ、城山頂上から警戒警報のサイレンがけたたましく響き渡った。やがてB29の大編隊が現れ、まず照明弾を投下、市街地は真昼のように照らし出された。
29日午前1時15分ごろ、空襲警報のサイレンと城山の鐘が鳴り響く中、焼夷弾が「ザー」という異様な音をたて、雨あられのように降り注いできた。あちこちから火の手が上がり、市街地はまたたく間に火の海と化した。
寝ぼけまなこで蚊帳(かや)から這い出し、防空頭巾をかぶる間もなくフンドシ1枚で逃げ惑うお年寄り、おんぶ紐(ひも)で赤ん坊を背負い、両手に幼子の手を引いて大瀬川の方へ走る母親、あるいは自宅床下の防空壕へ逃げ込む家族、街はハチの巣をつついたような騒ぎとなった。
夜が明けると、中心市街の大半が焼け野原となり、当時、日本有数の繁栄都市といわれた延岡は、見るも無残な姿をさらけ出していた。投下された焼夷弾の数50万発。
「延岡市史」(昭和38年版)によると即死者130、行方不明8、重傷11、軽傷48、被災戸数3765(全戸数1万4513)、被災人口1万5232)(全人口7万2566)。

この数字には焼失した市庁舎や警察署、学校、社寺、金融機関、旅館、劇場・映画館などのほか、当時南方村だった大貫地区の被災者・被災戸数は含まれていない。
延岡大空襲の死者は、のちの調査で320人と大幅に修正・増加しているが、それでも勤労動員などで市外から延岡に入り、犠牲になった人がほかにいたのではないかとみられ、必ずしも正確な数字ではないと思われる。

 

 

 

 

 

 

大惨事となった終戦直前の北小路爆撃


終戦間近の8月5日夜、北小路に突然一発の爆弾が投下され、大音響とともに爆発した。直撃を受けた「本多屋旅館」や周囲の民家は跡形もなく吹き飛び、目を覆いたくなるような、まさに阿鼻叫喚の修羅場と化した。
現場は、男とも女ともつかないほど破壊された無残な姿の人体、木片、ガラス片などが散らばり、その近くで絶叫しながら夫を捜す妻、我が子を捜し求めて泣き叫ぶ母親の姿があった。
この爆撃で30余戸が被災、市民や宿泊客ら「36人位」(昭和38年版延岡市史)が死亡した。36人„くらい"となっているのは、あまりにも惨状がひどく、しかも旅館に何人宿泊していたのかハッキリしないため、正確な数字が出せなかったからである。負傷者数も明確になっていない。
北小路の大惨事は、6月29日の焼夷空襲とはまた違った市民の衝撃と悲しみをさそった。

20回の空襲を受けた日向市、今も残る爆撃痕


 日向市は富高海軍航空隊の飛行場があった関係で、執拗(しつよう)に米軍の攻撃を受けた。3月18日から終戦直前の8月11日まで前後20回の空襲があり、死者7人、負傷者6人を出している。
富高飛行場とその周辺は、戦後しばらく米軍が爆弾を投下した爆撃痕が、ハチの巣のように無数に残り、激しい空爆を物語っていた。爆撃痕は今も財光寺の協和病院敷地内に1カ所残されている。直径約12メートル、深さ約5メートルの大穴である。
日向市への空襲は、富高飛行場から3キロ離れた細島港の船舶や民家、細島灯台、米の山、伊勢ケ浜一帯なども米戦闘機による機銃掃射を受けるなど、住民は常に空襲の危機にさらされていた。 

特攻基地にもなった富高飛行場


富高飛行場は、JR日豊本線と小倉ケ浜有料道路の中間にあった。予科練、予備学生らの飛行訓練を目的として設けられた飛行場たったが、真珠湾奇襲攻撃の訓練も行われた。飛行・攻撃訓練だけでなく、特攻隊の出撃・中継基地にもなった。
戦後は軍の解体によって無用の長物となり、滑走路跡は次々に宅地や工場、病院、商業施設などに生まれ変わった。協和病院敷地内に残る爆撃痕と滑走路跡(エプロン跡かも)、「神風特別攻撃隊出撃之地」碑などが当時を物語る。

空中戦の墜死者が眠る門川沖


門川町と延岡市の境、日向灘に向かって突出した遠見半島の頂上に黒御影石の「太平洋戦争日向灘空域戦没者鎮魂碑」が建っている。昭和20年初めから同年8月15日まで、日向灘から豊後水道にかけての空域は日米が空中戦を展開、多数の飛行機が墜落した。
戦後32を経た昭和52年秋、門川沖から旧日本軍の戦闘機「紫電改」のエンジンが引き揚げられ、関係者の新たな涙をさそった。