空襲警報ばかりで 仕事も手付かず
日向市は街を焼き尽くす焼夷攻撃はなかったが、海軍の富高飛行場があったことから、延岡市を上回るほどの空襲を受けた。原町の小橋フヂ子さん(87)もその一人。夫の寿さん(86)は兵役につき、山口県下関市近くの田舎で農地の開墾にあたっていた。
「私の実家は江良ですが、空襲が激しくなったものですから、西川内(富高の西奥)に疎開しました。でも仕事場が細島の製材所でしたので、西川内から細島まで約5キロの道のりを、モンペをはき防空頭巾をかぶり、毎日歩いて通っていました。
歩いている途中、突然、空襲警報のサイレンが鳴るんです。すると爆弾が落ちるか機銃掃射が来ますから、あわてて防空壕に飛び込むわけです。
会社で仕事をしていても、空襲警報のサイレンが鳴れば、仕事をやめて細島の山の下に掘られた防空壕へ走っていくんです。ですから落ち着いて仕事も出来ないんですよ。
私は、幸いにも機銃掃射を浴びたことはありませんが、見たのは何度かあります。そんなときは生きた心地はしませんね。もう戦争はいやです」。