空襲体験者によって語られる悲惨な戦争の真実。

 

栗田彰子先生やすらかに

栗田先生は桜小路のおばあさん(白石さん)のお家、私は幸町の自宅から毎晩学校へ出かけていました。あの日は、学校へ行って間もなく焼夷弾が落ちはじめ、校舎が燃え出しました。
防空壕を出て消火に行こうとしたら、誰かが倒れたんです。近寄って見ると栗田先生のようなんです。辺りは血の海で、私は「先生、先生」と呼び続け、私はそこから離れることができませんでした。街の方をみると、真っ赤な炎が夜空を焦がしていました。
夜が明けて、先生のご遺体をお棺に入れ、川舟で桜小路の家へ運びました。花嫁衣裳だったのでしょうか、おばあさんはそれを先生に着せ、化粧しました。それ はそれはキレイなお顔で、マリア様のようでした。また学校まで運び、みんなでヒマワリの花などをお棺に詰めました。私は「先生、今、海を越えて帰りなさ い」と言ったのを覚えています。
空襲が始まる直前、先生が「神も仏もないものかしら」とおっしゃったのが、最後の言葉になりました。しとやかで、思いやりがあって、やさしくて、やまと撫子(なでしこ)そのものでした。もう、戦争は二度としてはなりませんね。

語り手

菊池節子さん(88)

延岡市本町の菊池節子(旧姓=酒井)さんは、栗田先生と一緒に教鞭を執っていた。

栗田彰子さん(享年25)

安賀多国民学校教師だった日系カナダ人・栗田彰子さんは校舎の消火活動中、焼夷弾の直撃を受けて死亡した。

 

 

 


機銃掃射で島野浦国民学校生ら6人が犠牲に


5月2日午前8時過ぎ、1機の米軍爆撃機が島野浦上空に飛来、機銃掃射を浴びせた。このとき島野浦国民学校生の山本豊生さん(14)、富田速男さん(14)、長野栄二さん(13)、島田光代さん(13)が死亡したほか、多数の負傷者を出した。また住民の池田高利さん(32)と警防団女子第一部部長の山本花子さん(24)が死亡する惨事になった。
あの日は雨で、学校では朝礼を外でするかしないか検討していたようです。そこに上級生の週番が来て教室の窓を開けたら、バンバンと大きな音がするんです。米軍の飛行機が低空で機銃掃射しているのです。
「退避、退避」と声がして、私たちは目と耳を押さえ、廊下に折り重なるように伏せました。すると今度は校長先生が大声で「退避しろー」というので、みんな近くの民家や大きな木の陰などに逃げたんです。私は上級生に連れられ、民家の防空豪に飛び込みました。
飛行機が去ったあと、学校に戻ると机もイスも機銃弾の穴だらけ。「ウワーッ、ここんおったら死んじょった」という子もいました。この空襲で、高等科の生徒4人が亡くなりました。
機銃掃射はまるで戦争映画のように、バババババッと運動場の砂煙が上がるんですよ。兵士は運動場を逃げ惑うのが子供だというのが分かっていたハズです。戦争は差別なく子供でも殺すのが絶対に許せません。

塩谷五月さん(74)

 島浦町の塩谷五月さんは当時小学2年生、この悲惨な事件を語り継ぐ一人である。

 

 

 

 


女子挺身隊員爆死傷の惨事

工場に入る前、生徒をグラウンドに並ばせていたら、空襲警報のサイレンが鳴ったので、先に生徒を防空壕に入れ、最後に私が入ろうとしたとき爆弾が落ちたのです。
私は爆風で吹き飛ばされ、気を失いました。起き上がって豪に入ろうとすると、腹部に激痛が走りました。タンカで工場病院に運ばれましたが、医師がおらずに手術が出来ませんでした。
しばらくして大瀬町の富田医院に移されたけど、停電のために、すぐに手術が出来ないのです。午後4時ごろになって、医師2人と薬剤師1人が立ち会って手術が始まりました。膀胱(ぼうこう)にドリルの先のような爆弾破片が突き刺さっていて、11針縫いました。
空襲警報になったとき、防空頭巾をかぶる間もなく腹に当てていたので、それで破片が体を貫通せずに助かったようです。おなかの中から破片にからまった防空頭巾の綿が出てきました。右腕にも3カ所、小さな破片が突き抜けていましたが、幸い筋は切れていませんでした。
手術から3日後、空襲が怖いので家族のいる自宅に戻りましたら、相川勝六知事が見舞いに来てくださいました。
傷が完治しないうちに、今度は6月29日の大空襲です。家族は無事でしたが、自宅は全焼しました。戦争はこりごりです。

 

秋山美保子さん(85)

延岡大空襲50日前の5月10日午前7時25分、旭化成ベンベルグ工場グラウンドに爆弾が落ちた。居合わせた勤労動員の延岡高等女学校や、昭和女子商科学校の挺身隊員らに破片が命中、延岡高女の大崎靖子さんと柳沢年子さんが死亡、23人が重軽傷を負う惨事になった。昭和女子商科学校教師だった延岡市三ツ瀬町の秋山美保子(旧姓=渡部)さん(85)は、この爆撃で瀕死の重傷を負った。左手を当てているところに爆弾の破片が突き刺さった。