出撃直前で終戦を迎えた 特攻艇「震洋」「回天」
延岡市赤水町には水上特攻艇「震洋」、日向市細島には「震洋」と人間魚雷「回天」の基地があった。震洋も回天も、兵士が操縦して敵艦に体当たりするという捨て身の兵器。
赤水・鯛名には本土決戦に備えて、第116震洋隊基地(隊員約50人)が昭和20年5月に置かれた。当初は日向市美々津にあったが、基地に適さなかったため、1カ月ほどで移転した。
最初に震洋の格納豪が、基地隊員と地元住民の協力で造られた。赤水湾奥東側の岩山を穿ち、5カ所の豪を設けた。高さ・幅ともに約3メートル、奥行きは40メートルもあり、1つの豪に5隻格納できた。現在もほぼ当時のまま残っている。

震洋の船体は延岡製のベニヤ板


震洋はモーターボートの舳先(へさき)に250キロ〜300キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たりする兵器。赤水には長さ6.5㍍、幅1.86㍍、速力27ノット(時速約50キロ)、2人乗りの震洋5型艇が25隻配備された。     船体は、なんとベニヤ板(合板)で出来ていた。そのベニヤ板は当時延岡の旭化成レーヨン工場内にあった日窒航材工業(戦後に旭ベニヤ工業、昭和25年に旭有機材工業と改称)で生産、佐世保に送られ特攻艇「震洋」に生まれ変わった。

 

赤水の震洋特攻隊員だった田英夫氏


第116震洋隊の第2挺隊長として赴任したのが田英夫氏(故人=当時22歳)だった。田氏は戦後、東京大に復学して卒業、共同通信記者、TBSのニュースキャスター、参院議員を歴任した。
田氏らは8月4日に爆装命令があり、いつでも出撃できる態勢をとっていたが、すんでのところで終戦になった。赤水での訓練の様子は、著書「特攻隊と憲法九条」(リヨン社刊)に記されている。

細島の回天隊


日向市細島には人間魚雷「回天」の第8回天隊が置かれた。牧島山の南側、細島港に面した畑浦に格納豪などの基地施設が造られた。回天は人間が乗り込んで敵艦に体当たりする魚雷で、型によって異なるが、全長16メートル前後、直径約1.5メートル前後。爆薬は1.5〜1.8トン。
細島には他の基地より数隻多い12隻が配備され、本土決戦に備えて厳しい訓練が行われた。すでに格納豪は失われ、道路脇に回天基地があったことを示す看板が立っているだけ。
震洋基地は20年5月、細島港入り口の御鉾浦に第121震洋隊が置かれた。すぐ前はトンボロ(陸繋砂州)で結ばれた島「黒田の家臣」があり、格納豪はトンボロの南西側の岩山を掘って造られた。この豪も損傷がはげしく、ほとんど原形をとどめていない。細島基地188人の隊員のうち、部隊長、艇隊長以下三重海軍航空隊乙種飛行予科練習生出身の15〜18歳の特攻隊員54人が訓練に明け暮れていたが、出撃直前、終戦を迎えた。