西郷が陣頭指揮 和田越の戦い

1877年8月15日 西郷が陣頭指揮 和田越の戦い


和田越決戦配置図。延岡西南の役会設置の
案内板をもとに作成(延岡市和田越)

 未明、薩軍3500余は、和田越を中心に友内山(無鹿)から長尾山にかけて陣を構えます。官軍は5万余の兵力と火器で取り囲み、方財付近には軍艦が大砲を向けていました。この日西郷は、鹿児島を出て以来初めて最前線で指揮をとります。西郷が和田越の頂上に姿を現すと、兵士たちから大きな歓声が沸きあがりました。山県はその様子を、南西約1.5㌔の樫山山頂から見ていました。
 午前7時ごろ決戦の火ぶたが切られ、薩兵は眼下の官兵に猛射をあびせます。官兵も反撃しますが、稲葉崎のぬかり田に足をとられるなど苦戦します。しかし、しだいに薩軍を圧倒していきます。西郷は弾雨に身をさらし、微動だにしなかったそうです。桐野や村田は敵正面に立つのを阻止しようと説得しますが、聞きをあびせます。官兵も反撃しますが、稲葉崎のぬかり田に足をとられるなど苦戦します。しかし、しだいに薩軍を圧倒していきます。西郷は弾雨に身をさらし、微動だにしなかったそうです。桐野や村田は敵正面に立つのを阻止しようと説得しますが、聞き入れられず、ついには数人がかりで山から下ろします。おそらく西郷は、和田越で果てるつもりだったのでしょう。
 激戦は約5時間に及び、両軍合わせて300人余(薩軍は100人余)の死傷者を出しました。山を下りた西郷は、ひとまず俵野(現延岡市北川町)の児玉熊四郎宅に落ち着きます。
 翌16日、西郷は児玉宅で解軍令を出し、携えてきた書類や陸軍大将の軍服を焼き捨て、連れてきた愛犬も放しています。軍の解散で薩兵の大半が投降しますが、この中に西郷が大島に流されていたとき(1859~62)島妻・愛加那(あいがな)との間に生まれた菊次郎(当時17歳)がおり、負傷していた菊次郎は、官軍中将で西郷の実弟・従道(つぐみち=じゅうどう)に救われます。
 菊次郎は後に京都市長になり、従道は海軍大将・元帥までのぼりつめます。