県北雑学メモ〜日本海軍発祥之地

日向市美々津の町並みの北端、耳川河口に近い場所に「日本海軍発祥之地」と刻まれた高さ10㍍ほどの石碑が、日向灘に向かって建っています。神武天皇は日本(大和)を統一するため、兄の五瀬命(いつせのみこと=五ケ瀬の語源)とともに兵を整え、美々津から船出したという伝説にもとづき、昭和15年(1940)、「神武天皇即位紀元2600年」記念事業の一環として建設されました。


設計者は大分県臼杵市出身の彫刻家で、宮崎市の八紘之基柱(平和の塔)を設計した日名子実三氏です。石碑の正面には、西都原古墳群から出土した「舟形埴輪」(ふながたはにわ)を模した軍船?が置かれています。


日名子氏は、波頭(なみがしら)をモチーフに、神武天皇の軍船が大波の中を突き進んで行く様子を表現したといわれています。「日本海軍発祥之地」の揮毫(きごう)は、海軍大将で内閣総理大臣だった米内光政氏です。

昭和17年(1942)9月10日、東征出発の日(お船出の日)に合わせて完工式があり、すぐ脇には「両爪錨」(いかり)のモニュメントが据えられました。

戦後間もなく、進駐軍によって「日本海軍発祥之地」の刻字が削り取られましたが、地元有志らの強い要望があり、当時の防衛庁の協力を得て、昭和44年に刻字が復元されています。

伝説によると、軍船は耳川河口から約2㌔上流の「匠(たくみ)がコラ」(大工の浜)という場所で造られたといいます。さて、神武東征軍は、風向きの関係で出発が早まり、美々津の人はあわてて村人たちを起こして回りました。餡(あん)入りだんごをつくる余裕がなく、小豆(あずき)とモチ米をつき混ぜた「つき入れ餅」(お船出だんご)を差し上げたそうです。その伝説が毎年八朔(はっさく)の日(旧8月1日)に行われる「おきよ祭り」に見られます。

美々津から船出した東征軍は、美々津沖約1㌔にあるハエ(岩礁)の竜神バエと七つバエの間を抜け、細島に寄港、豊後水道を通って豊前、安芸、備後など瀬戸内海沿岸を進み、紀伊(和歌山)で上陸して大和(奈良)の橿原(かしはら)に着き、ここで神武天皇が即位したと伝えられています。

二つのハエの間を通った神武天皇は、再び日向に戻ってこられなかったので、美々津の人は今も二つのハエの間を通ることはありません。
「日本海軍発祥之地」の碑のすぐ西側には、神武天皇と住吉三神を祀った立磐(たていわ)神社があります。ここには「神武天皇御腰掛岩」と伝えられる岩があって、大切に守られています。

 

 

 

 

 

 

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