県北雑学メモ〜徐福岩

 今から約2200年前、中国は秦(しん)時代に徐福(じょふく、じょふつ=徐芾)という人がいました。時の始皇帝は徐福に、東方の蓬莱(ほうらい)山にあるという不老不死の薬草を見つけてくるよう命じました(徐福自ら採薬を願い出たとも)。
 徐福は約3000人の男女を従え、大船団を編成して、南西諸島の島づたい(朝鮮半島西岸沿い説も)に日本本土にやって来ました。
 そして中国・江南の気候や植生に似た延岡平野を見つけ、五ケ瀬川河口に近い蓬莱山(今山の古名)の麓の岩(徐福岩)に船を繋ぎとめました。
 その後、徐福は中国には戻らず、延岡にとどまって農耕・漁業・製鉄などの技術を伝えたほか、江蘇省・延陵の地名を冠して「延陵王」(延陵=延岡)と名乗ったということです。中国には、徐福こそ神武天皇だと唱える人もいます。
 これが延岡地方に伝わる徐福伝説のあらすじですが、中国の歴史書「史記」には、徐福が東方へ出かけて行ったまま帰らなかったという記述があるのです。
 さらに1982年、中国政府が国内の地名事典編纂(へんさん)作業をしていたところ、江蘇省北部の連雲港市徐阜村が、古くは徐福村だったことを発見したのです。
 驚いたことに、この徐福村には、代々徐福の話が語り継がれているほか、不老不死の薬草を求めて東方へ出かけ、故郷に帰らなかったことを記した古い系図まで残っているそうです。しかも、徐福の子孫までいるといいますからビックリです。
 延岡市古城町の渡邊昭春(しょうはる)さん(85)は、戦前から親子2代にわたって、徐福に関する調査・研究を続けています。これまで3度も中国・徐福村に足を運び、徐福の子孫という人にも面会しています。


 渡邊さんの研究は中国の徐福研究家たちの目にとまり、2007年には中国に招かれ(病気のため代理人が出席)、記念の皿を授与されています。ほかにも「日中友好始祖徐福 羽田孜」と刻された透かし彫りの壷が贈られています。元首相の羽田孜氏は、徐福の血を引くとされる秦(はた)氏の子孫だそうです。
 徐福の伝説は、青森から鹿児島まで全国数十カ所に残っています。中でも和歌山県新宮市には徐福公園や墓もあり、なんと財団法人新宮徐福協会まであります。
 延岡市で徐福が注目され始めたのは、ほんの数年前からですが、今山八幡宮の大鳥居脇に徐福岩、祇園町銀天街には徐福堂と徐福像があり、秋には徐福まつりも開催されています。
 それはさておき、クスリといえば江戸末期に豊後(大分)の賀来飛霞(かくひか)が、延岡など県北一円で多くの薬草を採取しています。
 最近では、延岡市無鹿町出身の故・貫文三郎博士(九州大名誉教授)は、世界的な薬学者として知られていますし、九州保健福祉大には、日本トップクラスの薬剤師合格率を誇る薬学部があるなど、延岡は徐福以来、クスリに縁のある町といえます。